平成18年3月31日、静内町は三石町と合併し、新ひだか町となりました。
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旧静内町

 ■緯     度     北緯42度16分〜42度40分
                 東経142度20分〜142度46分

 ■面     積     801.49q2
 ■人     口     23,125人 (平成12年国勢調査)
 ■世     帯      9,479戸 (平成12年国勢調査)
 ■町花/町木     エゾヤマザクラ/エゾヤマツツジ
 ■姉 妹 都 市      ○兵庫県洲本市 (昭和61年調印)
                 ○兵庫県西淡町 (平成2年調印)
                 ○徳島県脇町 (平成2年調印)

                   ○アメリカ合衆国ケンタッキ−州レキシントン市 (昭和63年調印)
  




■概  
 静内町は、北海道の道央圏、日高支庁管内に属しています。面積は、香川県
のほぼ半分に匹敵する801.49q2 で、そのうちの88%は森林。
人口は、約23,000人で町の中央を流れる静内川の下流や太平洋沿岸に集中し、気候
は太平洋に面しているため、海洋性。このため、夏は涼しく、冬は雪が少なく、暖かい、道
内では最も温暖な気候地帯といわれ、北海道の湘南ともいわれている。
日高地域における、産業、経済、文化、行政の中核的都市。



■まち自慢
 ●世界一/桜並木「二十間道路」(1万本の桜、幅36m、長さ8qのビックスス
              ケールを誇る桜並木。日本さくら100 選、日本の道100 選外)
 ●東洋一/競走馬のせり市場「北海道市場」
 ●日本一/競走馬生産(国内生産の80%を占める日高地方の中心都市)
         静内生産馬〜メリーナイス、トーショーボーイ、サクラチョノオー、ウィニング
                 チケットなど。
 ●国内初/アーリー・アメリカン・スタイルの市街地再開発事業(北海道まちづくり100選)
 ●国内最北/雁の越冬地(マガン、ヒシクイ、ハクガン、シジュウカラガン:since1995)
 ●北海道一/白鳥の越冬数(北海道の河川)
 



  
 海、山、川、平野と豊かな自然環境に恵まれているため、鳥相も豊かで、今ま
でに確認されている野鳥の数は、約200 種。中でも静内川は、道内の河川で、白鳥の越
冬数が一番多く、例年,オオハクチョウ約200 羽が越冬する。
  また、国内で確認されるのが数羽という珍鳥アメリカコハクチョウが昭和62年から毎年、
静内川に渡来。地球温暖化現象に起因、平成7年12月からはマガン群れが越冬を始め今
シーズンで11年目を迎える。平成11年12月〜平成12年3月にはマガンの外、シジュウカラ
ガン4羽、ハクガン1羽も越冬するなど、近年は「日本最北のマガン越冬地」として注目され
ている。




豊かな自然に恵まれて

.自然(地勢)


  地形は、大部分を日高山脈とその前山によって占められ、丘陵地を櫛
歯状に横断し、太平洋に注ぐ河川流域に谷底平野が見られる。
 河川は、二級河川・静内川。氷河期の浸蝕作用により、形成された日
高山脈に源を発しているため、急流河川が多く、水量も豊富でその一部
は水力発電にも有効活用され、静内川水系だけでも5つの発電用ダム
がある。
  地質は、河川流域の狭少な冲積地域を除き、火山岩と泥岩、重粘土
等の特殊土壌が多く、樽前系、有珠系火山灰が見られ火山灰が層をな
し、地味は薄い所が多い。
  山岳は、日高山脈5名山の一つカムイエクウチカウシ(1979m=写真)
を主峰にペテカリ岳、1839峰など、1,700m以上の山々がそびえ立ち、
多くのアルピニストの憧れの的である。



2.気 象

  海洋性気候のため、夏は涼しく、最高でも30度を越えることはまれ。逆に
冬は暖かく、零下10度を下回ることはあまりない。一年を通じて温暖である
ため、北海道の伊豆と例えられるほど、穏やかな気象が特徴である。年間を
通して降雨量も少なく、冬の降雪量は、道内では極めて少ない地域に属する。



《四 季》
 
【春】

  北海道の南西に位置するため、春の訪れが早く、4月に入ると移動性高
気圧におおわれ、好天の日が多いが、4月後半に入ると移動性高気圧の
南よりの高温、多湿な空気のため霧が発生しやすく、海岸地方を中心に霧
の日が多い。


 【夏】

  内陸を除き、海岸地方では8月上旬まで霧が多い。降雨量は、梅雨前線
や低気圧の影響を受け年間で一番多く、海岸部では涼しい日が続き過ごし
やすい日々が続く。


 
【秋】

  太平洋高気圧が次第に弱まり、低気圧が通過
するようになると、急に秋らしくなる。霧が少なく、
日高地方で最も良い季節となる。しかし、雷が多
く発生し、短時間強雨をもたらすこともある。


 
【冬】

  雪は少なく、しかも気温は下がることはなく、零下10度を下回ることはほと
んどない。例年、2月10日を過ぎると気温が段々と上昇し、そのまま春を迎
える。


3.静内川

  
(写真は農屋、御園地区から市街地方向を望む。右側は新冠町、正面上部は太平洋。
    平地のグリーンは牧草地)


  静内川は、日高山脈のペテガリ岳、イドンナップ岳を水源とし、山稜はカ
ール現象の残る山も多く、鋭い切り込みで沢に落ち、断崖が発達、多くの
瀑布も多い。風雨氷雪の浸蝕作用を受け、流出した大量の砂礫は、日高
の海岸や海を埋め立てていった。
  山地の地質は、花崗岩が噴出してその骨髄をなし、古生層は花崗岩の
周縁を包んで露出している。脊梁部を中心とする地帯は、いろいろな変成
岩から成り立っている。化石の山として、また、古い地質概念を揺り動か
す山として、多くの地質学者の注目を集めている。
  静内川の流域面積は、683.4ku、流路延長69.9qで、日高地方で
は沙流川に次ぐ代表的な河川である。流路の約7割(約50q)は、国有林
内の山岳地帯を蛇行しており、流域の林相は上流部において天然生林が
ほとんどを占め、大部分は復層林状をなしているが、中流部以下は岩石が
露出し、崩壊地が見られる。
  静内川が第一支流シュンベツ川と合流する地点の双川から、農屋、御
園地区にかけては扇状地である。この地区下流の川幅は、約3qに及ぶ。
  双川から河口までの19q余に及ぶ両岸の平地、丘陵地は、耕地と牧
場が大部分を占め、下流端3qは静内町の市街地である。
 

4.母なる静内川


  日高支庁管内の河川の内、冬期間に結氷しないのは静内川だけで、他
の河川は、12月〜2月中旬頃までの厳寒期、大方は完全結氷してしまう。
静内川も、数十年前は結氷していたが、近年の地球温暖化現象が原因か、
ここ10年位は河川流域の全てが凍ることはない。
 静内川だけが結氷しないのは、伏流水が河口付近を中心に湧き出すため
といわれ、サケなどの魚類を主食とするオジロワシ、オオワシをはじめとする
ワシ・タカ類は、河川が凍らないため餌の確保が容易となり、数十羽が静内
川で越冬する。
  また、天然の湖沼が存在しない静内地方で、静内川はキタキツネ、犬をは
じめとする野生動物(天敵)などから身を守る唯一の自然環境下にあり、マガ
ンの貴重な”ねぐら”となっている。
  従って静内川が存在しなければ、「日本最北のマガン越冬地・静内」は実
現していなかったであろう。



【百科事典で見る静内町】
  
●静内[町]
    
  北海道南部,日高支庁静内郡の町。人口2万3652(1995)。南西は太平洋に面し,
海岸に沿って苫小牧からの日高本線が通じる。東部は日高山脈中央部の険しい山
地,西部はそれに連なる丘陵地で,静内川に沿う低地に水田が分布する。
  1669年(寛文9)この地のアイヌの長老シャクシャインは,広く蝦夷地のアイヌを組織
して松前藩に抵抗して乱を起こした(シャクシャインの戦)。このとき藩軍に焼き払われ
たチャシ(砦)跡が市街に近い台地上にある。1871年(明治4)以降,徳島藩士の集団
移住が行われ開拓が進められた。72年御料牧場が設けられ,現在は農林水産省の
種畜牧場として種乳牛の改良が行われている。サラブレッド生産地としても名高い。
  製材工場が立地し,コンブ漁が行われる。            



●シャクシャインの戦 い
  1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現,静内町)を拠点に松
前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿
岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現,門別町)
地方のアイヌ(シュムクル(西の人の意)の一部)との漁猟圏をめぐる争いが続いていた
が,1668年4月,ついにシブチャリ・アイヌの首長シャクシャインがハエ・アイヌの首長
オニビシを刺殺するという事件に発展した。そのためオニビシ方のアイヌは藩庁に武
器援助を要請したが,藩側に拒否されたうえ,使者のウタフが帰途疱瘡にかかり急
死した。
  このウタフ死亡の報は,アイヌの人たちに松前藩による毒殺として伝えられ,この
誤報を契機に両集団間の紛争はまったく新たな方向に発展した。すなわち,シャク
シャインが東西両蝦夷地のアイヌに檄をとばし,反和人・反松前の蜂起を呼びかけ
たため,69年6月,東は白糠(しらぬか),西は増毛(ましけ)(ただし石狩アイヌは不参
加)に至る東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起,和人の商船や鷹待らを襲撃し,東蝦
夷地153人,西蝦夷地120人の和人が殺害された。
  このようにシャクシャインの蜂起は,系譜的にはアイヌ民族内部の争いを前提とし,
ウタフ毒殺という誤報とシャクシャインの檄を大きな契機にして,民族内部の争いか
ら松前藩に対する全民族的な蜂起へと一挙に質的に変化発展したところに大きな
特徴がある。その原因について近世の記録では,和人鷹待や金掘人夫の策動とす
るものもあるが,事の本質は次の2点にあった。第1は,松前藩の成立と展開,とく
に商場知行制と蝦夷地における砂金採取場や鷹場の設置によって,アイヌ民族の
収奪や漁猟場の破壊が一段と進み,アイヌ民族はかつてない民族的危機に遭遇し
ていたこと。
  第2は,アイヌ社会自体が収奪と抑圧の嵐にさらされつつも,和人との関係はいま
だ交易を主体にしていただけに,アイヌ民族本来の共同体はまだ破壊されていず,
条件さえ整えば共同体首長のもとに立ちあがれるだけの力を内包していたことであ
る。
  それだけに,この蜂起は松前藩のみならず幕府にも大きな衝撃を与え,幕府は松
前氏の一族松前八左衛門泰広(旗本)に出陣を命じ,津軽藩にも出兵を命じた。幕府
がアイヌ民族の蜂起に直接的な指揮権を発動したのはこれが最初である。松前藩は
急きょ軍隊を編成して鎮圧にのりだし,当初は苦戦したが,鉄砲と毒矢の差,アイヌ
勢の分断策もあり,アイヌの勢力はしだいに弱まり,10月シャクシャインは松前軍の
奸計でピポク(現,新冠)に誘殺された。その後アイヌの降伏が続出し,71年に最終
的に鎮圧された。
  この過程で松前藩はアイヌに対し絶対服従を誓わせた7ヵ条の起請文を強要した
が,これを契機に松前藩のアイヌ民族に対する政治経済的支配は一段と強化され
た。                                       


  
 (日立デジタル平凡社「世界大百科事典」より引用)